永遠少年症候群

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    マティアス 忘却と出逢い

     僕は何をしていたのだろう。
     やたらと物が増えた家で、立ち尽くしていた。引っ越したばかりで、これから家具を買おうという時だったはずなのに。
     テーブルには、食べかけの白いパンと赤いジャムがあった。こんなもの、魔法学校に通っていたとき以来……。

    「……あんえ……ん?」

     うまく喋れない。首を傾げると、足元に噛み切ったらしい舌が落ちていた。

    「!!」

     僕は吸血鬼だ。怪我はすぐに治るので、それほど驚くことじゃない。
     問題は、それが舌であること。
     僕の詠唱破棄魔法を使うためには、舌を噛まなければならない。本当は指を鳴らすとか、普通のアクションにしたかったのにあれは本当に不運なアクシデントだった……。登録のために指を鳴らそうとしたとき、クラスメイトがぶつかって舌を噛んでしまったのだ。
     舌が落ちているってことは、舌を噛み切るほど全力で魔法を使ったということだ。簡単な魔法であれば血も出ないほど軽く噛むだけでいい。

    「……ん、治った、かな」

     何かが起こったのだ。
     注意深くあたりを見渡すと、ベッドの横のテーブルに見慣れない時計が置いてあった。シルバーのデジタル時計だ。

    「……2065年……」

     最新の記憶の時間から、2年経ってる。

    「記憶を封じる魔法か、記憶を奪う呪い……?」

     何があったんだろう。ヴォルターに――いや、ココに――相談した方がいいだろうか。
     首をかしげると、ノックの音が聞こえた。

    「……やあ」
    「えっと……誰だったかな」
    「私のこと忘れたの?」

     魔力は感じない。人間と仲良くしていたということか?

    「……転んだかな……。ここ2年ほどの記憶がないようでね」
    「まったく、間抜けな話じゃないか。ワインを買いに行っている間にそんなことになってるなんて」

     ワインの瓶を揺らすと、美しい血色の瞳が人懐っこく細まり絹のような白い髪がさらりと揺れた。
     魔法を使おうとしたのではなく、転ぶときに弾みで舌を噛んだのだろうか。そうだとしたら、彼女の言う通りただの間抜けだ。だけどそれならそれで、転倒を防ぐなりするだろう。
     彼女がかじりかけのパンを持ち上げて微笑むだけで世界のどこよりも美しく見えた。記憶にはなくても心には残ってるのだろうか。

    「私と出会ったのはちょうど2年前。夜の散歩中。あなた、紫外線アレルギーだって言ってた」

     紫外線アレルギー……。もしかして僕は、人間として彼女に会ってた?
     ベタ惚れかよ。

    「これはね、私がプレゼントしたんだ」
    「時計――……」
    「そう。引きこもりの君が変な時間に電話をかけてこないようにね」
    「僕と君は――……」
    「友達だよ。ううん、この際言っちゃうと、友達以上恋人未満ってとこ」

     友達、以上――……。
     彼女が言った甘酸っぱい言葉に、喉が鳴った。

    「……あ、えっと。わかった。この、記憶がないっていう状況をどうにかできないか、ちょっと――……医者をやってる友人に聞いてみる」

     魔法理論の学者であるココなら、何かいい答えがあるかもしれない。医者といったのは、僕が彼女に人間であると偽っているらしいからだ。

    「そうか。約束も覚えてないみたいだし、引き留めるわけにはいかないな」

     彼女が冗談っぽく血色の目を細めて言う。「恋人未満だからね」と。彼女は出ていく直前、壁に手をかけて振り返ってまた笑った。

    「それじゃ、帰るよ。私のことは、ゆっくり知っていけばいい」

     思い出すことはないと、言われたようだった。
     ドアをココの家に繋げないと。舌を軽く噛むと、ドアから一瞬光が漏れた。そっと開けると、バスローブ姿のココがぼーっとハーブティーを飲んでいた。

    「あら、マティアス」

     ココが首を傾げると、ヴォルターの紋がちらりと見える。

    「連絡もなしに来るなんて珍しいわね。ヴォルターは今お風呂よ。これからあなたの実家で舞踏会でしょう?」
    「……そうなのかな。今日は君に用があって来たんだ。ここ2年ほどの記憶が突然なくなったんだ。気付いたら舌が落ちてて――……」
    「舌が? 魔法を使ったのね」
    「そう。それも、最大限の魔力を使った魔法」

     僕をじっと見ていたココが、「あら?」と呟く。

    「随分、魔力が増えたわね」

     その時、バスローブ姿の従兄弟、ヴォルターがやってきた。バスローブ姿の嫁に対峙している僕を見ても眉一つ動かさない。

    「マティアス。燕尾服ならこの前一緒に買っただろ?」
    「2年分の記憶がないんですって」
    「2年分……? 一人暮らしを始めてすぐ、か。何か嫌なことでもあったのか?」

     ヴォルターの言葉で思い浮かんだのは、さらさらと流れる白い髪。にんまりと細くなる血色の瞳。

    「……いや――……、たぶんそれはない」
    「何か手がかりになりそうなことはないの?」
    「……うーん……」
    「ま、いいわ。相当強力な魔法でなければ、思い出せるかもね」

     ココは僕に向かってクルクルと指を回した。それはココが魔法を使うためのアクションだ。
     ぐらぐらと脳が揺れる感覚、そして舌が一度床に落ちて戻った。これは――……時間操作の魔法?

    「……どう? 思い出したかしら」
    「全然」
    「じゃあ、戻らないかもね。今の魔法で戻るのは、頭を打ったとか記憶を封じられたとか……脳の中に情報が残ってる時だけなの。消されたり、奪われたりした場合は戻らない」
    「つまり、誰かが?」
    「誰か、というより、舌を噛み切るほどの力を使って自分で消したんじゃない? あなたの他に魔力の気配はないもの」
    「何があったんだろう。……ヴォルター、悪いが僕は欠席だ」
    「だめだ。マティアスはメインの一人なんだから。それに、女子を誘ったって言ってたじゃないか」
    「え」

     ――約束も覚えてないみたいだし。
     彼女を、誘ってたのか? 吸血鬼だらけのパーティーに?

    「……記憶がないって気持ち悪いな。僕、その女子のことは何か言ってた?」
    「ただの人間で、マティアスも人間のふりしてるって言ってたわ」
    「舞踏会では自分が離れなければ、大丈夫ってさ」

     やっぱり、彼女で間違いない。部屋に戻れば、連絡先くらい控えているだろうか。

    「ヴォルター、出発前に迎えに来て」
    「わかった」

     来た時のように扉同士を繋げて部屋に戻ると、電話が鳴っていた。彼女のような気がして慌てて飛びつく。

    「――……もしもし」
    『あ、出た。どうだった?』
    「何も思い出してないんだけど、僕、君を舞踏会に誘ってた?」
    『うん』
    「一緒に行こう。ダンスをしながら、ゆっくり君のことを教えて」
    『うん!』

     きっととびきり美しいドレス姿だろうな。
     もしかしたら、思い出せなくてもいいのかも。これからまた仲良くなっていけばいい。

    2015/12/16公開